『近代仏教と青年 近角常観とその時 代』補足・修正


 岩田文昭著『近代仏教と青年 近角常観とその時代』を2014年8月に刊行した後、いくつかの新発 見があり、 また誤記の指摘もあった。その中には、常観の実母に関する貴重な情報も含まれている。以下に、本書の記載の不十分な点を補足・修正しておきたい。

1)19頁:常観の実母について
 『近代仏教と青年 近角常観とその時代』では、常観の「実母の俗名は、現在では知る人もいないと いってよい」(19頁)と記した。 しかし、刊行後、三宅正隆立命館大学名誉教授より、常観の実母についてお知らせいただいた。三宅先生は、常観実母の妹の子孫にあたる人で、実母の名は「千代野」であるとし て、以下のような教示を受けた。

 千代野は滋賀県伊香郡高月町馬上(現在の長浜市高月町馬上)の真宗大谷派円照寺で、東野円澄(円照寺 12代住職)と幸の間に6人兄弟の長女として誕生。そして千代野は、延勝寺の西源寺の近角常随へ嫁ぎ、常観を産んだものの34歳で死亡した。その後、常観は継母・雪枝に養 育されることになるという事実である。

 三宅先生より、実母の親戚関係についても、詳細な以下のような教示を受けた。
 千代野の兄弟のうち、長男円隆は第13代住職を継いだものの、円隆は26歳で死亡し、次男の恵誠が第14代住職として円照寺を継承した。千 代野の妹に「たづ」(「とさ」とも呼ばれる)がおり、この情報を与えていただいた三宅先生の曾祖母にあたる。常観には、少なくとも14人のい とこがおり、そのうち、三宅恵海(のち「利孝」と改名)、三宅神開、丸山環らとは、東京での交流もあったということである。

 丸山環との交流は、常観の盟友・池山栄吉の就職にもいかされた。岡山大学の梶井一暁准教授の論文 「近代教育者の仏教観と教育実践――第六高等学校の池山栄吉の場合――」(日本仏教教育学会編『仏教的世界の教育倫理――仏教と教育の接点 ――』法蔵館、2016年所収)、によれば、第六高等学校に池山が赴任した背景には、近角の存在があった。池山発、常観宛の葉書の中に、六校 に勤務していた丸山環と会ったとわざわざ報告しているのはその傍証となろう。常観の支援が丸山らを通してなされたと推察される。
 常観の誕生した西源寺と実母の実家とは、近い距離にあり、その後の従兄弟たちの交流関係を見ても、常観自身は実母の出自は知っていたと推察 される。ところが、常観はこのことを口外せず、常観の直系にあたる人たちは、常観実母の氏名などまったく知らされていなかった。おそらく、常 観には、育ての親に対する強い恩義の感覚があったのだろう。そして、常観は聖徳太子の三骨一廟の伝承をもとに、継母を阿弥陀仏のごとくに思い 大切にした。常観の実母の姓名が近角家に伝承されなかったのには、このような状況があったのである。
 なお、拙著19頁に実母の法名を釈尼妙「覚」と記したが、これは釈尼妙「寛」を私が誤読し間違ったまま記したものである。この点も修正す る。

2)26-27頁:春日圓城について
 常観とともに、成績優等者として東京留学を命じられた春日圓「成」は、正しくは、春日圓「城」であ る。東本願寺の機関誌『本山 報告』三三号(明治21年3月15日)の記載にしたがったが、圓城氏のご子孫より誤記であるとの指摘を受けたので修正する。
 なお、求道会館所蔵の明治43年1月1日付葉書に、春日圓城という差出人の名がある。

3)39頁:梶井研丸について
 常観の友人を梶井「健」丸と記したが、『求道』第7巻4号にも記載されているように、これは梶井「研」丸の誤記である。この誤記は、三宅正隆先生のご教示を受けた。

4)104頁
:常観とともに僧籍復帰した 人物名
 常観とともに、大谷派に僧 籍復帰した、海野惠「深」、森「寛」成の名前を、大谷派の機関誌『真宗』(昭和11年5月号、415号)にもとづき海野惠「凍」、森「覺」成 と修正する。
 
5)129頁:古澤平作のウィーンでの滞在期間
 古澤平作のウィーンでの滞在期間を「一年半余り」としたが、実際には一年弱であるので、「一年弱」と修正する。
 生田孝氏の詳細な調査にもとづけば、古澤は、1931年12月下旬に横浜を立ち、1932年1月26日午後9時にウィーンに到着。同年、 1932年12月24日にフロイトに挨拶をし、12月31日にウィーンを去り、翌1933年2月9日に帰国をした。生田孝「古澤平作のドイツ 語訳「阿闍世コンプレックス」論文をめぐって」『精神医学史研究』Vol.19 no.2、2015年所収、参照。

6)215頁:山川智応について
 精神科医・小此木啓吾の両親の精神上の師は、田中智学の弟子である、山川智応であった。本書では、小此木啓吾・河合隼雄『フロイトとユン グ』(第三文明社、1989年)17頁に基づき、山川「知」応と記したが、「智」応が正しいので修正する。この誤記は、大谷栄一氏のご指摘に よって判明した。
                                     以上、ご指摘を受けた人に感謝を申し上げるとともに修正をいた します。

2018年4月20日 岩田文昭